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skmtsocial:

半沢 健   (写真家)
僕は日本が好きです。
そして祖父母がいた福島が大好きです。
いま福島では、原発で起きた事故のために、多くの人が不安を抱えて暮らしています。
原子力事故は、誰もが言葉を失うほどの、取り返しのつかない事態を引き起こしました。
その原発は福島だけでなく、日本中に存在しています。
同じ日本に生きる1人として、この現実に向き合ってください。
そして福島から、日本から、原発に対する世界の意識を変えてください。

skmtsocial:

半沢 健   (写真家)

僕は日本が好きです。

そして祖父母がいた福島が大好きです。

いま福島では、原発で起きた事故のために、多くの人が不安を抱えて暮らしています。

原子力事故は、誰もが言葉を失うほどの、取り返しのつかない事態を引き起こしました。

その原発は福島だけでなく、日本中に存在しています。

同じ日本に生きる1人として、この現実に向き合ってください。

そして福島から、日本から、原発に対する世界の意識を変えてください。

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skmts-all:

奈良美智 (美術家)
取り巻きから政治家先生と言われ、応援され、自分の意思を貫こうと奮闘している政治家の方々。
実際、あなた方の耳まで届かない声も、この日本にはたくさん存在しているのです。
耳を欹てて、その声を聴こうとする意思を持たないならば、誰が良き政治を行い、より良き未来に皆を導くことができるのだろうか。
真に政治を志し、行おうとしている方々は、我ら民が代表であり、党派や己の私利私欲で動くような人であってはならない。
尊敬され、未来においてもそう語られる人であることを、一票の清く重きにおいて望みます。

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奈良美智 (美術家)

取り巻きから政治家先生と言われ、応援され、自分の意思を貫こうと奮闘している政治家の方々。

実際、あなた方の耳まで届かない声も、この日本にはたくさん存在しているのです。

耳を欹てて、その声を聴こうとする意思を持たないならば、誰が良き政治を行い、より良き未来に皆を導くことができるのだろうか。

真に政治を志し、行おうとしている方々は、我ら民が代表であり、党派や己の私利私欲で動くような人であってはならない。

尊敬され、未来においてもそう語られる人であることを、一票の清く重きにおいて望みます。

(via skmtsocial)

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" カフカのエピソードでひとつすごくいいのがあるんです。ベルリン時代の出来事なんですが、カフカが恋人と一緒に散歩していると、公園で小さな女の子が泣いている。どうしたのかと訊くと、人形が無くなっちゃったという。それでカフカはその子のために人形からの手紙を書いてやるわけです。本物の手紙のふりをして。「私はいつも同じ家族の中で暮らしていると退屈なので、旅行に出ました。でもあなたのことは好きだから、手紙は毎日書きます」みたいなことを。それで実際に彼は、その子のために一生懸命毎日偽の手紙を書くんです。「今日はこんなことをして、こんな人と知り合って、こうなって」と三週間くらいずぅーっと書いていって、子どもはそれによってだんだん癒されていく。最後に、人形はとある青年と知り合って、結婚しちゃいます。「だからもうあなたにはお会いすることはできませんが、あなたのことは一生忘れません」っていうのが最後の手紙になっている。それでその女の子もすとんと納得するわけです。
 そんなまめなことって、普通の人にはできないですよね。ぜんぜん見ず知らずの女の子なわけだから。なぜカフカにそんな面倒なことができるかというと、夢の、架空の世界の細密さに対する異常なこだわりが彼の中にはあるんですね。だからその具象性を細密に描写することを毎日毎日やっていても飽きない。面倒じゃないんですね。女の子も人形を失った悲しみは、「人形からのお手紙」を受け取り続けることによって消えちゃうんです。彼女は人形が無くなったという無秩序から、人形が無いという新しい秩序へと移されるわけです。それは本当に素晴らしい話だと思うんだけど、でも僕も、そういうのはいくぶんできそうな気がする(笑)。"

「『海辺のカフカ』を中心に」聞き手 湯川豊、小山鉄郎
文學界 2003年4月号/日本
『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです 村上春樹インタビュー集 1997-2009』p.126 (via taskforce2008)

(via taskforce2008-deactivated201306)

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"

共生を求める人、求めない人
映画『A2』をめぐって
村上春樹

森達也氏の監督した「A2」(注1)は、「ポスト麻原」体制下のオウム真理教の姿を時間をかけて綿密に取材したドキュメンタリー映画で、文字どおり前作「A」の続編にあたる。

 「A」に比べると、そのほとんどやみくもなまでの行き当たりばったりさは薄れていて(往時のネオ・リアリズモを思い起こさせるような乱雑さが、言うまでもなく「A」(注1)のひとつの大きな魅力になっていたわけだが)、手法はより洗練され、画面はよりシャープになり、作品としての方向性もより明確になっている。

 しかしどちらが作品として優れているか、インパクトを持っているかというような比較には意味はないだろう。これらの二作品を一対のものとしてあわせ見ることによって、我々としてはそこにある状況をより正確に、より立体的に眺め、把握することが可能になるわけで、むしろこれら二作品が、お互いに違っていることの中にこそ、継続性の意味が求められるはずだ。

 存続した教団
 「A2」においては、一九九五年の地下鉄サリンガス事件後四年から六年を経た世界が描かれている。オウム真理教は名前を変えただけでまだ存続し、宗教活動をおこなっている。後期の麻原が追求した種類の反社会的、暴力的組織行動はもちろん封印されているが(それを行えるだけの現実的な余裕もないだろう)、出家制度を中心とする厳格でアグレッシブな修行体制がその根幹をなしていることに変わりはない。

 麻原に対する個人的な崇拝も、おおやけには口にされないものの—あるいは口にすることを奨励されていないにせよ—今でも間違いなく続いている。麻原の写真は彼らの修行施設の中で簡単に見いだせるし、麻原についてどう思うかと個人的に質問しても、だいたい要領の得ない返事しか返ってこない。

 実際に「A2」の中にも、「もしあのときにサリンをまけとグルから命じられたら、私だってまいてますよ」という趣旨の発言をする信者が出てくる。

もぐらたたき
 オウム真理教信者たちの集団住居や修行場が近所にできると、その近隣に住む健常な一般市民はおびえ、混乱し、怒る。考えてみればまあ当たり前の話かもしれない。かつて集団テロ事件を起こしたわけのわからない連中が集まって、なにかわけのわからないことをしているのだ。

 というわけで人々は「殺人集団オウムは町から出ていけ!」という看板を作り、ヒステリカルなデモンストレーションを繰り返し、さまざまないやがらせをする。なんとしてでも信者たちを排除しようとする。役所は住民票の転入届を受理せず、学校はその子どもたちの就学を拒否する(もちろん憲法違反だ)。

 そして彼らは最後には信者たち彼らを町から追い出してしまう。それでは追い出されたオウム真理教信者たちはどこに行くのか? 当然どこかべつのところに行かざるを得ない。身分を隠してこっそりと家を借りて、集会所にする。そしてまた同じことが繰り返される。もぐらたたきのようなものだ。

 対話の試み
 しかしそれらの排斥する側の運動の中にも「こんなことを繰り返していたって発展がないじゃないか」という気分が生まれてくる。「A2」にはそのような人々の姿が意識的に、かなり克明に描かれている。

 見張り小屋を建ててそこで信者を監視しているうちに、監視するべき相手と少しずつ仲良くなって、「一人ひとりを見れば、そんなに悪いやつらじゃないじゃないか」と考え始めたおじさんたち。彼らは信者に本や食品を差し入れて、なんとか彼らを「改心」させようとする。自分たちの「まっとうな」社会の中に引き戻そうとする(もちろん戻ってこない)。

 あるいは反権力(警察)という心情的共通項をとおして、立場はまったく異にしながらも、オウム信者たちとの対話を求める右翼民族派の一部の人々。あるいはオウム真理教幹部からの謝罪をなんとか受け入れようと努める、松本事件の被害者の一人である河野義行さん。もっともオウム真理教の幹部のほうにはその時点では、河野さんに謝罪するという明瞭(めいりょう)な意志が決定事項としてないので、話はほとんど滑稽(こっけい)なまでにすれ違っていくのだが…。

 意識のずれ
 そのような人々はオウム信者を何がなんでも頭から排除するのではなく、むしろ彼らと共生できる新しい道を発見することによって、逆に自分たちを—あるいは自分たちの属する社会を—うまく機能させていけるのではないかと考えているようにも見える。

 それは基本的にはきわめてまっとうな考え方ではある。そして教団側も表面的には、そういった相手からの手の差しのべのようなものをにこやかに受け入れようとしているかに見える。でも果たしてそうなのだろうか? 信者たちの側には、自分たちを取りまく社会と有機的に共生していこうという意志は本当にあるのだろうか?

 そのあたりの認識の—場合によっては滑稽なまでの—すれ違いかたこそが、この「A2」という映像作品が我々に提示している重大なテーマではあるまいかと、映画館の観客席に座りながら僕は考えることになる。そのような意識のずれが、実は我々の社会の大きなパラドックスみたいなものを作り出しているのではあるまいかと。

正しい選択
 我々の住んでいる一般的な社会はいわば「開かれたサーキット」であるが、その社会の中にはいくつもの「閉ざされたサーキット」が並列的に存在している。逆説的な言い方だが、我々はそういう閉鎖性を呑(の)み込み許容することによって、その開放性の原理を維持しているわけだ。
 オウム真理教(アレフ)もそのような、我々の身体中にある「閉ざされたサーキット」のひとつだ。それは独立した教義を持ち、その論理のもとに大義を追求し、結果として無差別殺人事件という犯罪行為を犯した。しかし我々は彼らに対して破防法を適用することを回避し、その宗教団体としての存続を許した。

 言い換えるなら、我々の社会は深い傷を内側から受けながらも、その開放性を維持することをあえて選びとったのだ。そしてそれはおそらく正しい選択だったと僕は考えている。

 結束強める迫害
 しかしよほどのことがない限り、教団の閉鎖性がこれから先、変わることはないだろう。なぜなら彼らの求めているのは、現世から離れたところに修行空間をつくりあげ、現実社会とは異なった価値観のもとに自己の内面を追求することであるからだ。麻原がいてもいなくても、ほとんど関係はない。そこには既に確固とした修行運営システムができあがっているからだ。まわりの現世の人々は彼らを迫害するかもしれない。しかしその迫害は逆に彼らの結束を強くするだけだろう。

 彼らはもちろん社会における自分たちのポジションを現実的に必要としている。修行するための場所、生活の資を得るための経済活動の基盤。そういうものがなくては活動を続けていくことがむずかしいからだ。しかし彼らは外なる現実との実りある「共生」を求めているのか? それはきわめて疑わしい。なぜなら彼らはそもそも、システムの成り立ち方からして、そんな共生をとくに必要とはしていないからだ。

 それでは基本的に共生を必要とする人々と、基本的に共生を必要としない人々とが、同じ社会内で共生をしていくことは果たして可能なのか? このような本質的な疑問を「A2」という映画は我々に突きつける。

僕は「アンダーグラウンド」(注2)という本の中で、六十人を超える数の地下鉄サリンガス事件の被害者をインタビューした。そしてそのあとで「約束された場所で」(注2)という本のために、何人かのオウム真理教信者(および元信者)のインタビューをした。

 被害者たちの多くは、事件当日満員の朝の地下鉄に乗って仕事場に向かっていた「普通の人々」であり、信者(元信者)たちは多かれ少なかれ「現世」から離れ、自己の追求をおこなっていた人々だった。

 そのような聞き取りの中で、僕は事件そのものとのかかわりよりは、むしろ彼らがどのような人々であるのかということに興味を持った。彼らはどこで生まれ、これまで何をして生きてきて、どのような経緯と理由でそこにいたのか、それが僕のまず知りたいことだった。べつの言い方をすれば、僕は彼らの個人的なヒストリーを収集したのだ。

 普通の人々
 しかし両者のどちらのヒストリーが僕の心にしみたかというと、圧倒的に「普通の人々」によって語られたものの方だった。なぜならそのような人々の語るヒストリーには、現実にしっかりと根ざしたものでなくては獲得し得ない深みがあったし、奥行きがあったし、それは小説家としての僕の意識に確実にコミットしてくる種類のものであったからだ。

 それに比べると信者(元信者)の語る個人的ヒストリーの多くは、たしかに通常ではない経験を含んではいたが、立ち上がり方が平板で奥行きに乏しく、そのぶん心に訴えかけてくるものが希薄だった。より一般的に話を敷衍(ふえん)するために、「ヒストリー」を「ナラティブ(物語)」という言葉で置き換えてもいい。

 意識の記号化
 一般的に言うなら、閉鎖されたサーキットにあっては、「意識の言語化」は「意識の記号化」に結びついていく傾向がある。彼らはもちろん意識の言語化に対してきわめて熱心である。しかし彼らが言語と考えているのは、言語というかたちをとった記号にすぎないことが多い。狭い緊密なサーキットの中では、情報の記号化が簡単だし、その方がずっと伝達効率がいいからだ。記号化された情報を仲間と同時的に共有することで、連帯感も強まる。

 しかしそのような記号化は長期的にみれば、確実に個人のナラティブ=ヒストリーのポテンシャルを落とし、その自立性を損なっていく。それが小説家としての僕が彼らとの対話をとおして、かなり切実に感じたことだった。

 言い換えれば、それはとても危険なことなのだ。

混沌とした社会
 それに比べると我々はひどく効率の悪い、混沌(こんとん)とした社会の中に生きている。その事実は日々の新聞をごらんになれば簡単に理解できるはずだ。そんなところからさっさと逃げ出して、心地よい同質的なコミュニティーの中にすっと入り込んでしまいたくなる気持ちもわからないではない。


映画「A2」の1場面
 森達也監督は映画「A2」の中で「社会は確実に劣悪化している」とコメントする(発言はかなり抑えられているが、おそらくは制作者側の重要なメッセージとしてこれは残されている)。しかし果たしてそうなのだろうか?

 正直なところ僕には、社会は劣悪化していると断言することはできない。社会はとくに良くもならず、それほど悪くもならず、ただ混乱の様相を日々変化させているだけではないか、というのが僕の基本的な視点だ。乱暴な言い方をすれば、社会というのはもともと劣悪なものなのだ。でもどれほど劣悪であれ、我々は—我々の圧倒的多数は—その中でなんとか生きのびていかなくてはならない。重要な真実はむしろそこにある。

 内と外を結ぶ装置
 さらに突っ込んで言えば、そこにある外なる混沌は、他者として障害として排斥すべきものではなく、むしろ我々の内なる混沌の反映として受け入れていくべきものではないかと、僕は考えている。そこにある矛盾や俗っぽさや偽善性や弱さは、我々自身が内側に抱え込んでいる矛盾や俗っぽさや偽善性や弱さと実は同じものではないのか? 海に入ったときに、身体のまわりを包んでいる海水と、我々の内なる体液とが成分として互いに呼応しているように…。

 そう考えていくと、我々の気持ちはいくぶん軽くなるかもしれない。我々の皮膚の内側(自己)と外側(社会)がうまく通信し始めるかもしれない。我々の抱えている個人的なナラティブが、両者のあいだを結ぶ装置としての必然性を持ち始めるかもしれない。そこに有効な出し入れが生まれ、我々の視点は複合化し、我々のとる行為はいくぶん重層化していくかもしれない。

 多くの人々はオウム真理教に入って自己を追求する若者たちを「純粋」だと感じるかもしれない。しかし純粋であるというのはいったいどういうことだろう?

 もしそれがただ単純に外なる混沌や矛盾を排除することであるとすれば、それは同時に自分の体液=ナラティブを排除してしまうことになるのではあるまいか?

傷は癒やされるか
 たぶんそのような意味あいにおいて、我々は好むと好まざるとにかかわらず、この社会に存在するいくつもの「閉鎖されたサーキット」を自らの一部として、いくぶんメタフォリカルに、受け入れていかなくてはならないのかもしれない。もちろん犯罪は犯罪として裁かれるべきだし、教団は自らの行為の責任を引き受けなくてはならない。

 しかし犯罪事件の実行犯の何人かを絞首刑に処しただけで、我々の社会が内側から受けた傷は果たして癒やされるのだろうか? おそらく癒やされることはないだろうし、またそんなに簡単に癒やされてはならないだろう。我々はこれからもずっとその痛みを、自分の痛みとして引き受け、感じ続けていかなくてはならないだろう。

 彼らを痛みとして許容すること—それがつまりは彼らと「共生する」ということの意味ではないか、と僕は考える。そのような許容をとおして我々というナラティブは厚みを増していくかもしれないし、またその集合体としての社会の組成も、同じように厚みを増していくかもしれない。

 一人ひとりの判断
 その社会がもともといかに劣悪なものであるにせよ、改良の余地がわずかしかないにせよ(わずかでもあるということを喜ばなくてはならないはずだ)、少しずつでもいいから我々はそれを補強していかなくてはならない。そのような意志こそが、痛みに耐えつつ社会の開放性を維持しようという強い意志こそが、我々の内なる閉鎖性をも正しく活性化させていくのではないか。僕は基本的にそう感じている。たとえ相手がそれを望んでいるにせよ、いないにせよ。

 映画「A2」(注3)にはもちろんそこまでの具体的なメッセージはこめられていない。そこにあるのは公正で率直な映像的情報である。すべての判断は一人ひとりの観客にゆだねられている。僕もその一人として映画を見ながら、僕なりの結論に達しただけだ。 (作家)

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(Source: web.archive.org)

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"村上春樹の『アンダーグラウンド』が発表されて今年で15年になる。オウム真理教事件関係者へのインタビュー集だ。翌98年の続編『約束された場所で』と並び、異色の社会派作品として注目された。
 同じ時期、オウムの内実に迫るドキュメンタリー映画として公開されたのが森達也監督の「A」だった。森によれば、村上は試写の場に2度足を運んでいる。
 「驚きました。メディアや知識人からほぼ無視される状況だったから」と森は振り返る。「村上さんは、オウムを“悪”としてたたくだけの善悪二元論的な思考に違和感を抱いているように見えた」とも。
 2002年、村上は森の続編映画「A2」に反応し、「映画『A2』をめぐって」とする長文の批評を共同通信に寄稿した。オウム信者のような「社会との共生を求めない人々」とも共生することは可能か。自由社会に突きつけられた先鋭的な問いをめぐる、重い論考だった。03年には、DVD化された「A」に解説も寄せた。
 09年、村上の小説『1Q84』に森は驚くことになる。長髪で目が不自由なカルト宗教団体の教祖。“麻原彰晃”死刑囚にそっくりな人物が登場していたからだ。
 教祖は同作に“絶対悪”の第一印象で登場した。彼が「善とは何か」を語る重厚な第2巻第11章は、作家の持続される思索の一つの到達点と読める。"

(Source: book.asahi.com)

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ピエール・バルー監督作 「時と時刻 ~ロベール・ドアノー&緒形拳」 (by YamahaMusicandVisual)

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(Source: hydrotoxicity, via greenlikebathwater)

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(via she-remains-unchanged)

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Instagram Blog: Anti-Nuclear Protests in Tokyo

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Thousands of protesters gathered in front of the Japanese prime minister’s house on Friday to protest…

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